すんませんずっとサボッてました。リア充してたんでえへへ……。ウソです。半分はホントだけど。
ずっと目標にしてたライブをこないだ終える。「なんか初々しかったですよ。緊張が見てとれて、一応そういうところあるんだなあって、思った」、いやいや、いっつもハナはガチガチのグダグダですよ。一曲目はコード進行のミス、今まで何回弾いたと思ってんだよ、んで二曲目まあまあ、三曲目は親指が弦をはずした箇所が若干数。もしかしたら客は気づいてねえかも、んなこたあねえか。それ以降も似たようなもん。指が安定しねえなあ。マジ課題。
打ち上げで、ずっと世話になってるひとに、「アーティストとしての原石のかがやきを、そのまま出せるようなひとになりなさい」と言われた。一般的に見てアラサー職歴無しの人生詰みモードな俺でも、いざ社会にでりゃ乳離れ未満のペーペー扱いである。The☆若造。
「player」と「アーティスト(笑)」はちがう、そのオジサマはそう言った。当然(笑)は自分のつけたしである。「アーティストは調子の悪いときもいいときも、そのままの自分をステージで出さなきゃいけない。そのときの100点を出さなきゃいけない。playerはいつでもどこでも、きれいな80点を出せばいい」俺なりに雑にまとめりゃそんな話。
自分はずっとplayerになりたいと思っていた。いつでもどこでもミスなんぞしねえ、歌も演奏も出るとこは出て、ひっこめるところはひっこめる。つくりあげた詞と曲を完璧にこなし、拍手喝采を浴びる。やるべきことを、正しいことをする。composerとして机上でものした作品の、ステージでの理想的な再現。
でもそれは選ばれたひとの領域で、凡人がそれを完遂しようとすれば、夢想にふけるか壁にぶちあたり現実に妥協するかである。俺はアルゲリッチやキース・ジャレットじゃねえ。二十代半ば過ぎて音楽に足つっこんだ、ただの趣味人だ。当然、プレイの出来もその範疇。
オジサマが自分のことを買ってくれているのはわかる。まわりからも自分は、「まあまあできるやつ」だと思われているのだろう。でも自分のまわりを見返してみても、そう思えるすてきな同世代は、それこそあちこちにいる。所詮田舎の狭い音楽シーン、それなりの努力をした人間が、それなりの評価を受ける。それだけのこと、とつよく思い込もうとする自分がいる。
技術がなければ認められない、そう考えて、この三、四年血反吐はいてきた。おかげでまわりの音楽仲間にくらべて、こむつかしいということにおいては、小指の爪の先ほど浮いている。しかし技術で金を稼ぐ、ということは音楽界隈においては、「なんでもできる」ということとほぼ同義である。ひどく嫌味な言い方をすれば、カラオケ的演奏がいかにこなせるか、ということ。もちろん音楽家個人のアイデアルな演奏観というのはあるだろうし、カラオケ的演奏の繰り返しのなかでも、playerの側にプライドと誠実ささえあれば、当然技術は磨かれる。事実そういう、こころざしというものを持ったplayerのほうが圧倒的に多数だと思う。だってみんな、音楽が好きなんだもん。
「俺はうまいだけのひとには惹かれない」と、ある音楽仲間が言っていた。彼は自分のつくる音楽を良く思ってくれてはいるが、正直そういう文言に、すこしとまどった。基本的に世の中をナナメに見ている。ドヤ顔で説法できるメッセージや自己主張など持っていない、日のあたる大通りはリア充の歩くもんだ。さらけだして喜ばれるもんなんざ持ってねえと思っているから、必死こいて技術を磨いた。無い袖ふってボイトレにかよい、ギターも教えてもらった。しかしいざ人前で成果を御開陳してみりゃ、自分が評価されているのはどうやら楽曲のオリジナリティである。オリジナリティはわかりやすい価値じゃない。ギターがうまい、とか、歌がうまい、とか、誰とでも演奏がこなせる、とか、そんなきれいなもんじゃなく、不確かで、評価する側の好みによっちゃ無碍に切り捨てられるような価値。とんがりである、かたよりである。いびつなもんである。
自分のplayerとしての目標、それはカラオケ的にもアーティスティックにもあらゆる演奏をばっちりこなすような、たくさんのひとに必要とされるタイプのものではなく(できるものならやりたいんですよ? 引き出しが多いのは美徳だ)、composerとしての自分の創作物を理想的に再現してみせる、自分専属のプレイヤーである。前者に比べて、身につけなければならない技術の水準は当然いちじるしく低い。にもかかわらず、それすらやりこなせてはいない。短い短いとは言われるが、なんだかんだでもう三年半ギターを弾いている。年齢的に追い込まれたアラサーフリーターにとって、この時間はずいぶん長い。オリジナリティなんぞ好き好き、なら、とりあえず演奏技術を磨こう。万人受けできるような音楽は自分にはつくれないから、せめてむつかしいギターを弾いてじょうずに歌をうたって、それでヒトサマに認めてもらおう。そう考えてせっせこ練習重ねつづけ、いまだ未熟なまま。
人前で演奏をはじめ二年弱、自分の音楽観はずいぶんひろがった。CDやレコードとしてパッケージ化された音楽と、ステージのうえで演者の肉体をともなって、はじめて成立する音楽と、ふたつはまったく違っていた。詞、曲、アレンジ、ながれだす音楽の最小の構成要素はおなじでも、後者のほうがずっと不純物が多く、曲に演者に客にハコの雰囲気、すべてまぜっかえしてはじめて、「ライブ」という場が成立する。たとえ何のMCも挨拶もなしに、演者が坦々と演奏をこなし舞台を降りたとしても、観客は彼らを「ああ、そういうひとたちなのだな」と理解する。パッケージ化された音楽は、演奏者を音楽の奥におしこめるが、ライブでは、演奏者と音楽が同時に鑑賞される。人間はCDラジカセではなく、人間は音楽ではない。そして仮に、舞台上でさらけだした「人間」がすべて嘘だったとしても、「良いライブ」は成立してしまう。そういう意味での不純さも含めて、自分があたらしく目の当たりにした音楽は、かつて知っていたものよりずっと混沌としている。
むかし夜通し寝付くまで、枕元のラジカセからながれつづけていた音楽は、自分のうちとつながるためのツールだった。自分と深くつながるために、人様の音楽を借りていた。今、自分は自分の音楽をもっていて、人前で演奏し、友達が増えた。音楽は自分の外側とつながるためのツールになった。
表現力は技術だ、ずっとそう思って練習を重ねてきたし、今も考えは変わらない。技術というのは、持たざるものの武器だ。武道がほんらい弱者のためにあるように、力づよい腕っぷしや美しい声を、あらかじめ「持っていない」種類の人間が、必死こいて探り、考え、試行錯誤のうえに身につけるもの。必要なのは才能ではなく努力であり研鑽である。だからこそ、技術というものはつねに、それ自体は至極まっとうなものであり、技術を持つものにはたとえ人間性がどうあれ、その一点においては敬意が払われるべきだと考えている。自分はその技術のもつ、「まっとうさ」にすがろうとした。ただしくありたい、たしかなものでありたい。自分自身はまっとうでなくとも、身についた技術はまっとう以外のなにものでもない。
そんなふうに、自分じゃないものを手に入れるために試行錯誤し、未熟ながらにもなんとか練り上げたものが結局、自分以外のなにものにもならず、そのあっけなさ、頼りなさに、鼻白むといえばそうだ。「結局ひきうけるしかないのかしら」と諦念混じりに飲みこんで、のど元につっかかりもする。なんともむずがゆい。手がとどかない。ただ、むかし持っていなかったもの、むかしとおくにあったものが、今、自分の手のとどく範囲にある。良し悪しにかかわらず、事実として。
自分を外にひっぱり出したのは、自分の音楽だった。幸福な縁にめぐまれたことは言うまでもない。しかし、まったく奇天烈なギターを弾き、ぶかっこうに歌をうたい、ゆっくりと、ではあったけれどそれはそのままに受け入れられてきた。正職に就いたことがない自分は、音楽をとおしてはじめて社会というもの、人間の綾のなかに身を入れた。そういうやり方が「まっとう」なものであるかどうかはわからないが、現にそうなってしまっている。肌でじかにふれる外の世界は、かつて家の窓から見ていたよりずっとやわらかくて、多様で、そのぶんいかがわしくて不透明で、なんとも手ごたえが軽い。うまいこと歩いているつもりでも、なにかのはずみで足元ごとなくなりそうな気もしてしまう。ただ、いまのところ、居心地はいい。ありがたくはあるのだが、この居心地に甘えてばかりではいけないな、とも思う。
生きていくのはほんとうにむつかしい。まったくどうすりゃええんかいな。