2011年10月 5日 (水)

 あー腕いてえ。痛い! 困ったなあ。今日はお呼ばれして街で飲酒。魅力的な音楽をしている方に、彼のホームに誘われてだらりと飲みニケーション。

 

 上記の文章の、「音楽」を「仕事」に、「ホーム」を「仕事場」に変えればごく一般の、仕事勤めに燃える若手社員の一日。でもこちとらお金も稼げないし社会的地位も低い。

 

 ひとと会って会話して、企画をすすめてまたひとを巻き込んでなにかしら事をなす。職人の腕を基盤に政治づとめをこなす、同業者の熱意と、愛すべき偏屈さにはほんとうに頭が下がる。もちろん先達にあらかじめならしていただいた土台にのっかったうえで、好きにやらせてもらっている。ありがたや。

 

 まあ社会参加ですよね。田舎の町の音楽シーンがひとつの営利企業だとしたら、俺実際結構優秀なほうだと思うんですけど、まあ親には認められんよなあ。フラフラしているバカボンであります。オバカボンクラ。

 

 ブログやりてえなあ。いや、もうやってるんですけど。ここじゃなくてもっと表向きのやつ。ほんとはずっとつづけてるこの場所で、音楽も随筆もどきもくっちゃべってたい。あからさまにしたーい。でも「アクがつよすぎるからやめときな」ってリアルも仮想現実も知ってもらってる友人に忠告いただきました。俺はぶちまけたーい。でも人間関係こわしたくなーい。

 

 ここしばらくでほんと、今までになくひとと会っており、様々勉強させていただいて、ありがたいこと。そのうえで、好き放題くっちゃべるのは基本だけど、もうちょっと体裁のよい、ひとさまに愛でられる文章をものしてみたくなったって気持ちがムクムクわいております。 

 

 不特定多数の方々ではなくて、具体的に顔の見える彼ら彼女らに向けて、文章を書きてえなあ。そのうえでもちろん、言いたいことを言いたい。んで、そこから得るフィードバックを楽しみたい。

 

 でもそうなると、このブログの意味なくなりますよね。自慰とか処女厨とかそういう(でも自分にとってはなかなか核心的なことなんですけど)世間的にアンタッチャブルなことは、よそいきの服に羽織るショールではない。表明するだけで誤解を生むあれこれだもの。

 

 あーどうしょう。親には今年中に職に就くって言っちゃったし。でも音楽界隈でうごきまわるのがたのしくてしかたねえのよ。ひとの綾のなかでながされてるのが超エキサイティング。あそばせていただいておるのだ。

 

 困ったもんですわ。タイピングも弾き語りも、指をうごかすのは楽しい。でも考えるのは大変です。再来週はめさくさすてきなミュージシャンと共演させていただける。知名度ないけどね。でもヤバイすわ。ああ、人生どうしょうか。胸搾るぜいたくな悩み。手元は明るくお先は真っ暗。経済的破綻。パトロン募集中。もう寝なな。おやすみです。

2011年9月21日 (水)

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 油そば。豚肉と野菜をこまぎれ、豆鼓や豆板醤で適当に炒めあげ、茹でた中華そばに胡麻と胡麻油と中華醤油たらしてくちびるギトギトにしながら食う。

 

 いろいろいそがしい。動画撮ってもらってネットにあげたり、練習場にてDV片手に奮闘したり、それでもなんにもなんねんだろなーと思いつつ。

2011年8月 4日 (木)

 石鹸をきらしてたのをすっかり忘れたまま風呂にはいり、しゃーなしでアジエンス(軽やかスムースタイプ)で肌をみがく。それなりにやりこなす。これから買いものいかなきゃ。

 古井由吉『杳子』読了。ちょっと今は放心状態で、何を書いていいかわかんなくなっている。このブログでも基本、自分の脳内や身辺のことしか書いてねえように、結局ワタクシは私小説やエッセイみたいなのが向いてんのかなあ、とも思う。でも、それが受け入れられるかどうかは別の話だしなあ。

 誰だって四、五年も精進したら、文芸誌レベルの文章力は身につく、という文言を目にした。まあそうだろうなあ。楽器だってそうだもの。あとはもりあがる玉石の山から、自分のことを玉だと思ってくれる人間に見つけてもらうだけ。でも、それが一番むつかしい。

 みんな似たような技術を持っていて、みんそれなりに個性があって、そのなかからたった一人選ばれるっては、どういうことなんだろか。以前自分の音楽仲間が、ちょっと練習の不足気味な、しかしセンスあふれる友人に向かって、「練習で得られないものを持ってるのに、練習しないなんて罪だよ!」と語気あらく語っていた。でも、「練習で得られない」特別なもの、というのは、結局受け手の主観にガチガチにからめとられている。「どれだけ多くの人間の鏡となる作品を生むことができるか、それが芸術の才の肝要だ」というならば、結局芸術は、多数派の感性の行軍と勝鬨をたたえる憲章に過ぎなくなる。

 四年弱、勉強とお稽古しかしねえ生活をずっとつづけてきて、すこし疲れたところはある。創作は自分という人間にとって、ものすごく重要なものだし、これからも離れられないとは思うけど、生活の形態もふくめ、いろいろなものとの距離のとり方を、ちょっと考えなくちゃいけない。

  

 畜生、女遊びでもすればよいのかしらん? ああ、相手がいねえや。とりあえず、小説でも読んで頭冷やそう。

2011年8月 2日 (火)

 はじめて干ししいたけと昆布の出汁で、味噌汁をつくる。動物的ななにかが足りなかったので、ナンプラー数滴。豆腐賽の目と茗荷をすこし。

 石川淳の『普賢』を読書中。やっぱ自分は、こんくらい饒舌で自己主張のつよい作品が好きだし、自分でもそういうもんを書きたい。でも、最近の小説って大体フィクショナルな物語や人物像を書くことに終始してるような気がする。作者はオマケ。作者の思想もオマケ。綴られることばさえも、オマケ。まあそれはそれでいいと思うんだけど、なんだかなあ。

 

 当然応募した新人賞から電話連絡はこなかったので、分不相応にずっとしょげてたけど、どうにかなんとか七分咲きに立ち直る。もう今年三十路だし、時間ないのだ。いっぱい文章書いて、いっぱいギター弾いて、目のまえのことを頑張ろう。職も考えなきゃあ。バイトでもいいから、ノウハウってのをかっちり身につけられるようなとこがいいなあ。まずは丁稚奉公から。それでもまあ、やることやってから終わりたい。

 今年はCDつくれたらいいなあ、友人頼みだけど。つべに音源あげたりもしたい。はて、どうすんべかな。

2011年7月15日 (金)

 ちょっとだけ読書メモ。

 『「文化」とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義を与えられた有限の一片である。』

(岩波文庫 『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』マックス・ヴェーバー著 富永祐治・立野保男訳 折原浩補訳) 

 

 まえから欲しかったのがジュンク堂に入荷してたので購入。おもろいなあ。やっぱ学問系で金字塔うちたてたような人間の脳味噌にならぶにゃあ、来世に期待するしかねえかなあ、と思ってしまう。

 

 あと、一週間くらい筋トレさぼってお肉だいぶゆるくなっちゃってたけど、昨日今日と鍛えたらぼちぼち回復した。人間のからだってすげえ。

2011年7月 8日 (金)

 また実家にメガネ忘れたよ。チョーうぜえ。

2011年7月 6日 (水)

もやもやしながら生きている。

 すんませんずっとサボッてました。リア充してたんでえへへ……。ウソです。半分はホントだけど。

 

 ずっと目標にしてたライブをこないだ終える。「なんか初々しかったですよ。緊張が見てとれて、一応そういうところあるんだなあって、思った」、いやいや、いっつもハナはガチガチのグダグダですよ。一曲目はコード進行のミス、今まで何回弾いたと思ってんだよ、んで二曲目まあまあ、三曲目は親指が弦をはずした箇所が若干数。もしかしたら客は気づいてねえかも、んなこたあねえか。それ以降も似たようなもん。指が安定しねえなあ。マジ課題。

 打ち上げで、ずっと世話になってるひとに、「アーティストとしての原石のかがやきを、そのまま出せるようなひとになりなさい」と言われた。一般的に見てアラサー職歴無しの人生詰みモードな俺でも、いざ社会にでりゃ乳離れ未満のペーペー扱いである。The☆若造。

 「player」と「アーティスト(笑)」はちがう、そのオジサマはそう言った。当然(笑)は自分のつけたしである。「アーティストは調子の悪いときもいいときも、そのままの自分をステージで出さなきゃいけない。そのときの100点を出さなきゃいけない。playerはいつでもどこでも、きれいな80点を出せばいい」俺なりに雑にまとめりゃそんな話。

 自分はずっとplayerになりたいと思っていた。いつでもどこでもミスなんぞしねえ、歌も演奏も出るとこは出て、ひっこめるところはひっこめる。つくりあげた詞と曲を完璧にこなし、拍手喝采を浴びる。やるべきことを、正しいことをする。composerとして机上でものした作品の、ステージでの理想的な再現。

 でもそれは選ばれたひとの領域で、凡人がそれを完遂しようとすれば、夢想にふけるか壁にぶちあたり現実に妥協するかである。俺はアルゲリッチやキース・ジャレットじゃねえ。二十代半ば過ぎて音楽に足つっこんだ、ただの趣味人だ。当然、プレイの出来もその範疇。

 オジサマが自分のことを買ってくれているのはわかる。まわりからも自分は、「まあまあできるやつ」だと思われているのだろう。でも自分のまわりを見返してみても、そう思えるすてきな同世代は、それこそあちこちにいる。所詮田舎の狭い音楽シーン、それなりの努力をした人間が、それなりの評価を受ける。それだけのこと、とつよく思い込もうとする自分がいる。

 技術がなければ認められない、そう考えて、この三、四年血反吐はいてきた。おかげでまわりの音楽仲間にくらべて、こむつかしいということにおいては、小指の爪の先ほど浮いている。しかし技術で金を稼ぐ、ということは音楽界隈においては、「なんでもできる」ということとほぼ同義である。ひどく嫌味な言い方をすれば、カラオケ的演奏がいかにこなせるか、ということ。もちろん音楽家個人のアイデアルな演奏観というのはあるだろうし、カラオケ的演奏の繰り返しのなかでも、playerの側にプライドと誠実ささえあれば、当然技術は磨かれる。事実そういう、こころざしというものを持ったplayerのほうが圧倒的に多数だと思う。だってみんな、音楽が好きなんだもん。

 「俺はうまいだけのひとには惹かれない」と、ある音楽仲間が言っていた。彼は自分のつくる音楽を良く思ってくれてはいるが、正直そういう文言に、すこしとまどった。基本的に世の中をナナメに見ている。ドヤ顔で説法できるメッセージや自己主張など持っていない、日のあたる大通りはリア充の歩くもんだ。さらけだして喜ばれるもんなんざ持ってねえと思っているから、必死こいて技術を磨いた。無い袖ふってボイトレにかよい、ギターも教えてもらった。しかしいざ人前で成果を御開陳してみりゃ、自分が評価されているのはどうやら楽曲のオリジナリティである。オリジナリティはわかりやすい価値じゃない。ギターがうまい、とか、歌がうまい、とか、誰とでも演奏がこなせる、とか、そんなきれいなもんじゃなく、不確かで、評価する側の好みによっちゃ無碍に切り捨てられるような価値。とんがりである、かたよりである。いびつなもんである。

 自分のplayerとしての目標、それはカラオケ的にもアーティスティックにもあらゆる演奏をばっちりこなすような、たくさんのひとに必要とされるタイプのものではなく(できるものならやりたいんですよ? 引き出しが多いのは美徳だ)、composerとしての自分の創作物を理想的に再現してみせる、自分専属のプレイヤーである。前者に比べて、身につけなければならない技術の水準は当然いちじるしく低い。にもかかわらず、それすらやりこなせてはいない。短い短いとは言われるが、なんだかんだでもう三年半ギターを弾いている。年齢的に追い込まれたアラサーフリーターにとって、この時間はずいぶん長い。オリジナリティなんぞ好き好き、なら、とりあえず演奏技術を磨こう。万人受けできるような音楽は自分にはつくれないから、せめてむつかしいギターを弾いてじょうずに歌をうたって、それでヒトサマに認めてもらおう。そう考えてせっせこ練習重ねつづけ、いまだ未熟なまま。

 人前で演奏をはじめ二年弱、自分の音楽観はずいぶんひろがった。CDやレコードとしてパッケージ化された音楽と、ステージのうえで演者の肉体をともなって、はじめて成立する音楽と、ふたつはまったく違っていた。詞、曲、アレンジ、ながれだす音楽の最小の構成要素はおなじでも、後者のほうがずっと不純物が多く、曲に演者に客にハコの雰囲気、すべてまぜっかえしてはじめて、「ライブ」という場が成立する。たとえ何のMCも挨拶もなしに、演者が坦々と演奏をこなし舞台を降りたとしても、観客は彼らを「ああ、そういうひとたちなのだな」と理解する。パッケージ化された音楽は、演奏者を音楽の奥におしこめるが、ライブでは、演奏者と音楽が同時に鑑賞される。人間はCDラジカセではなく、人間は音楽ではない。そして仮に、舞台上でさらけだした「人間」がすべて嘘だったとしても、「良いライブ」は成立してしまう。そういう意味での不純さも含めて、自分があたらしく目の当たりにした音楽は、かつて知っていたものよりずっと混沌としている。

 むかし夜通し寝付くまで、枕元のラジカセからながれつづけていた音楽は、自分のうちとつながるためのツールだった。自分と深くつながるために、人様の音楽を借りていた。今、自分は自分の音楽をもっていて、人前で演奏し、友達が増えた。音楽は自分の外側とつながるためのツールになった。

 表現力は技術だ、ずっとそう思って練習を重ねてきたし、今も考えは変わらない。技術というのは、持たざるものの武器だ。武道がほんらい弱者のためにあるように、力づよい腕っぷしや美しい声を、あらかじめ「持っていない」種類の人間が、必死こいて探り、考え、試行錯誤のうえに身につけるもの。必要なのは才能ではなく努力であり研鑽である。だからこそ、技術というものはつねに、それ自体は至極まっとうなものであり、技術を持つものにはたとえ人間性がどうあれ、その一点においては敬意が払われるべきだと考えている。自分はその技術のもつ、「まっとうさ」にすがろうとした。ただしくありたい、たしかなものでありたい。自分自身はまっとうでなくとも、身についた技術はまっとう以外のなにものでもない。

 そんなふうに、自分じゃないものを手に入れるために試行錯誤し、未熟ながらにもなんとか練り上げたものが結局、自分以外のなにものにもならず、そのあっけなさ、頼りなさに、鼻白むといえばそうだ。「結局ひきうけるしかないのかしら」と諦念混じりに飲みこんで、のど元につっかかりもする。なんともむずがゆい。手がとどかない。ただ、むかし持っていなかったもの、むかしとおくにあったものが、今、自分の手のとどく範囲にある。良し悪しにかかわらず、事実として。

 自分を外にひっぱり出したのは、自分の音楽だった。幸福な縁にめぐまれたことは言うまでもない。しかし、まったく奇天烈なギターを弾き、ぶかっこうに歌をうたい、ゆっくりと、ではあったけれどそれはそのままに受け入れられてきた。正職に就いたことがない自分は、音楽をとおしてはじめて社会というもの、人間の綾のなかに身を入れた。そういうやり方が「まっとう」なものであるかどうかはわからないが、現にそうなってしまっている。肌でじかにふれる外の世界は、かつて家の窓から見ていたよりずっとやわらかくて、多様で、そのぶんいかがわしくて不透明で、なんとも手ごたえが軽い。うまいこと歩いているつもりでも、なにかのはずみで足元ごとなくなりそうな気もしてしまう。ただ、いまのところ、居心地はいい。ありがたくはあるのだが、この居心地に甘えてばかりではいけないな、とも思う。

 生きていくのはほんとうにむつかしい。まったくどうすりゃええんかいな。

2011年6月 9日 (木)

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 今日の朝ごはん。たたききゅうり、とうもろこしポタージュ、白飯。一応クルトンは自作。実家の食料棚の余剰物を大量に拝領し、さて俺はどんだけどのような食材があれば家でよろこんで料理すんべかなと、この際詳細を見極めるべくいろいろやってみようと思います。昼飯は台湾のインスタントラーメン(みやげもの)、晩飯はボンカレー中辛。

 起床して適当に文を書き飛ばす。やはり手首は重く、意を決し夕方から接骨院へ。「いや、あんま痛くはないんすよ、ほんと、ただ重いもんがしんどかったり、ずっと疲労感が残ったり……」、「あ、腱鞘炎って言っていいと思いますよ、手の甲側の腕の筋肉ものっそいパンパンだもん。ほら、手首がまともに反らないでしょ」、「はあ(うへえ、マジもんかよ……)」、入念に揉み解され電気治療、テーピングまでお世話様。実際結構キてたらしい。あー行っといてよかった。保険きくし。また来週。

 んで例によって二時間練習。二日ほどちゃんと弾いてなかったから曲の進行がすこし荒れ、しかし歌がよくのびるなあ、ジャズ酒場でうまいひとのお歌見たから、ミラーニューロンがうんちゃらかんちゃらナリよ。いや、自分にとって新奇だったり興味深かったりするプレイを見たのちに、なんか似たようなことができちゃう(あくまで自分の実力なりに、ってことですが)ってのはじつはよくあることで、俺にかぎらず芸事の世界に片足突っ込んでる人間には経験あるんじゃねえかなあそういうこと、つまり見るのも大事な勉強ってわけ。

 まあともかく今日は病院行ってよかった。最近また小説書きたくなってきたなあ。

 

2011年6月 8日 (水)

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 今日の酒肴は豪勢です。右から、

・たたききゅうり:ささみ焼いて裂いて冷まし、塩もみ後水気きったきゅうりと、醤油一味胡麻油で和える。ご飯がススム系。

・中華風冷奴:木綿豆腐と刻んだピータン皿にちらし、たれは大蒜醤油豆板醤中華黒酢、ひねり胡麻山椒砂糖、塩抜きしたザーサイにレンジでチンしたしめじ。最後にあさつき。

・生ハムトマト:トマトを胡椒と白ワインビネガーで和え、上に賞味期限切れの生ハムならべる。あさつき。

 全体的に塩気がつよい。むくむぜ、素肌! 昼飯以後ずっと食事のタイミングのがし、劇的にふらふらしながら調理。こんだけ肴がんばって酒はペット焼酎+ジンジャエール+炭酸水(ジンジャ直割りは甘すぎるの)という粗い輩。

 んで飲んで食って筋トレしたら貧血気味にくらくら。やべー。胸筋増やすのむつかしいですよね。いつか更新用のワープロたたきながら、もうそろそろ寝る準備。

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